※本記事は、性別違和・胸オペを専門とする医師が責任を持って執筆したものです。
【はじめに】 胸オペ(乳房切除術)は、FTMのひとたちにとって、性別違和の解消に大きな役割を果たす手術ですが、術後に目立つ傷あとが残ることで、見た目の満足度が低下し、精神的な負担となるケースもあります。 特に、広範囲の皮膚切開を伴うアンダー切開法では、創部の張力や皮膚の特性によって、瘢痕が肥厚したり赤みが長引くことがしばしば見られます。
このような問題に対し、ボトックスの活用が注目されています。ボトックスは、筋肉の動きを一時的に緩める作用がある薬剤で、美容医療では表情じわの改善などに広く使用されてきました。最近では、創部周囲の筋緊張を抑えることで、傷あとを目立たなくする効果も報告されています。
研究の概要
この論文は、トランスジェンダー男性(FTM)に対する胸オペ後の瘢痕形成をBoNT-Aが予防・改善できるかどうかを前向きに検証した、世界初のランダム化比較試験です。
実施機関・対象
• タイ・マヒドール大学(Siriraj Hospital)
• 2021年7月〜2022年4月に手術を受けたFTM患者15名
• ダブルインシジョン術式で乳腺切除を受けた方が対象
研究デザイン
方法として、患者本人の両胸の瘢痕を比較対象とし、左右の瘢痕のうち片側にボトックスを注射し、もう一方にはプラセボ(生理食塩水)を注入します。 • 注射時期:術後14日目(抜糸後) • ボトックス製剤: 20単位 • 投与部位:片側瘢痕に沿って均等に注入
結果
瘢痕の赤み、厚み、柔らかさ、色調の改善
6ヶ月時点で、ボトックスを投与した側の瘢痕は、プラセボ側と比べて有意にスコアが低下していました。つまり、赤みや厚みが少なく、柔らかく自然な瘢痕となっていたことを示します。
• BoNT-A側:平均 7.43 ± 0.26
• プラセボ側:平均 8.82 ± 0.26
• p値 < 0.001(統計的に有意)
キズの色調の変化
ボトックス群の瘢痕の赤みは3ヶ月・6ヶ月ともに有意に少なかったことが示されました。
※
ボトックスが効く理由
ボトックスによる瘢痕改善は、以下のような複数の作用機序によって説明されます
- 1. 筋緊張の緩和
創部の周囲筋を一時的に麻痺させることで、創部への張力を減少させ、皮膚のズレや引っ張りを抑制します。これにより、瘢痕が広がったり盛り上がったりするのを防ぎます。
- 2. TGF-β1の抑制と線維芽細胞の制御
ボツリヌストキシンは、傷あと形成に関与するTGF-β1というサイトカインの産生を抑制することが示されています。その結果、過剰なコラーゲンの沈着が抑えられ、肥厚性瘢痕の形成を防ぐと考えられます。
- 3. 血流と治癒の促進
一部の報告では、ボトックスは創部の血流改善を通じて、治癒過程の正常化にも寄与する可能性が示唆されています。
安全性と副作用
・研究中、ボトックスに伴う重大な副作用は報告されませんでした。注入部位の一時的な違和感や軽い赤みなどが一部に見られましたが、自然軽快しています。
・ボトックスはすでに美容・神経・形成外科領域で広く使われている薬剤であり、安全性の高い治療といえます。
本研究の意義と今後の課題
意義
• FTM胸オペ後の瘢痕対策に対する新たな選択肢
• 美容的満足度向上が、性別移行の質にも好影響をもたらす可能性
今後の課題
• 症例数が少ないため、より大規模な臨床研究が必要 • ボトックスの投与量・注射タイミング・繰り返し投与の効果などさらなる検証が必要 • 経済的負担の評価や保険適用の可能性も含め、実用化に向けた検討が期待されます 。
まとめ
FTM胸オペ後の瘢痕は、患者のQOLや自己肯定感に直結する重要な要素です。今回の研究では、ボトックスによる術後のキズの瘢痕の軽減が、実際に視覚的に有意な効果があること示されました。 今後、FTM治療における「見た目の満足度」をより高めるために、ボトックスの活用が新たな標準となる可能性があります。
【参考医学論文】 Efficacy of Botulinum Toxin Type A for Prevention of Post Mastectomy Scar in Transmen: A Prospective, Randomized Study. Toxins . 2023;15(11):636.